地球社会統合科学府

学府について

学府の特色

社会的多様性共存コース
氏名 濵本 満(はまもと みつる)
専門分野 文化人類学
キーワード
講座 人間環境学研究院 教育学部門 国際教育環境学講座
九州大学
研究者情報URL
http://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K002842/
研究内容 私のこれまでの研究業績の概要、および今後の研究の方向について述べるに先立って、いささか遠回りにはなるが、人類学とその研究対象の性格について私がどのように想定しているかについて述べることから始めたい。それは厳密に定式化され検証されたものではなく、まだ幾分不正確で素朴な仮説的なヴィジョンの域を出ないものではあるが、少なくとも私の研究を方向付ける指針となってきた。おそらくそれは多くの人類学者が想定しているものと、そうかけ離れたものではないに違いない。しかし、あえてそれを示すことで、私の研究内容を判断する際に有用なコンテクストを提供しておきたい。

地球上のさまざまな場所で、人々はさまざまに異なる境遇の下で生きている。私にとって人類学の中心的な関心のひとつは、自分のものとは異なるこのようなさまざまな境遇の下で生を営むということがどういうことであるのか、という問である。もちろん同じ地域に生きる人々にとっても、その境遇はある意味では一人一人異なると言えるように、「境遇」という言葉は指示範囲の広い、いささか曖昧な言葉ではあるが、私はそれが個のレベルと集合的なレベルを連続的につないで考えるうえで便利な言葉だと考えている。(それを環境世界、社会、文化などの他の言葉で言い直せば-人類学は通常こうした水準で問題を定式化するのであるが-、問題はより集合的なレベルでたてられることになろう。)

さて、人間にとっての<境遇=世界>は、単に人々の外部に、人々の実践とは独立に存在する与件ではない。それはかなりの程度まで人々の実践の産物でもあり、当の人々の実践を通じて更新され再生産されている。人間以外の生物にあっても、ボールドウィン型の進化(個体が生後に獲得する行動-つまり学習-が環境に変化をもたらし、それが新たな淘汰のコンテクストになるというサイバネティックな過程として進化をとらえようとしたもの)におけるように、それぞれの種にとっての環境世界は諸個体の適応実践の条件であると同時に産物である。生物はさまざまな程度において、自らが棲みついている世界を、そこへの自らの適応実践を通じて作り出してもいるのである。
人間においては、その<境遇=世界>に棲みつく適応実践(というよりもむしろ世界に対するチューンあわせと言ったほうがよいかもしれない(註1))は、それが社会的に--つまり他の人間たちとのつながりと相互行為に--媒介され、記号システムを介した想像的なかかわり方でもあるというまさにその理由で、はるかに錯綜した仕方でそれ自身の<境遇=世界>の生成と再生産の実践となっている。
人々が自分の境遇=世界をどのように思い描いているかは、その世界に対する棲みつきのシステマティックな実践の不可分の構成要素である。その世界をどのような世界として思い描いているか、つまり、そこではどのようなことが起こり、どのような存在者たちがおり、何が問題であり、いかなる危険があり、どのような報償があるか、そこでは何が可能で何が不可能であると考えられているか、これらは人々の実践のシステムに深くかかわっている(註2)。そもそも、このように「思い描かれた」世界こそ、人々がそれにチューンをあわせていく対象、そこに棲みついていかねばならない<境遇=世界>にほかならない。さらに通常人々は、存在していると考えている危険を回避し、手に入るに違いないと思っている報償を求め、可能だと考えられている行動に出て、不可能だと思われている事柄にははじめから手を出そうとはしないので、こうした世界についての想定は、まさに実際にそこでの人々の実践--それらが当の<境遇=世界>を再生産したり、変えたりもしていくわけだが--を規定している。
<境遇=世界>についてのこうした想定、思い描きは、この意味で、人々の<境遇=世界>への棲みつき実践のシステム総体を支え、逆にそれによって支えられている。それを実際に実現してみせる実践こそが、人々が可能だと考えているものを、まさに現実に可能なものにし、人々の思い描きの内容を<境遇=世界>に対象的にそなわった属性に変える。世界に見出されたある属性に向けての(あるいはそれを踏まえての)実践は、まさにその属性を可視化させる実践でもある。この意味で<境遇=世界>への棲みつき、チューンあわせの実践の総体は、まさにW・ジェイムズが「真理化の過程」と呼んだものになっているのである(註3)。
人間にあっては、各自の<境遇=世界>へ棲みつきチューンをあわせる実践が、つねに「社会的」な実践であることは、特に強調する必要がある。人々はコミュニケーションのネットワークへの接続を通して、<境遇=世界>について思い描くその内容を随時更新しており、またそこでは他者の実践は、私の<境遇=世界>に変容をもたらしうる実践であるばかりでなく、まずなによりもそれは私のチューンあわせの主要な対象なのである。<境遇=世界>に棲みついていくということは、こうした複雑なチューニングの回路に絡みとられた主体として自己成型していくということでもある。それは別の言い方をすると、不断の学習(ベイトソンが論じているような意味においての)のプロセスである。

このような仕方で研究対象を捉えることによって、次のような具体的な研究の課題が設定されることになろう。(1)ある特定の人、あるいは人々にとって<境遇=世界>はいかなるものであるか。これは他者の<境遇=世界>、そこへの棲みつき=チューンあわせの社会的実践の中からたち現れる世界の相貌を、われわれはどのようにして知り、記述することができるかという認識論的な問いを含む。(2)世界がどのようなものであるかについての<想像=思い描き>が、その世界への棲みつきの社会的実践とどのように関係しているのか。これには、ある人々がもつ特定の信念が、彼らが属する社会空間の特性とそこでの実践とどのように関係し、後者によっていかに支えられ再生産されているのかを明らかにするという作業を伴う。(3)特定の<境遇=世界>における実践主体の自己のあり方を明らかにすること。これは、世界へのチューニングの実践の社会的にパターン化された網の目の中で、個々の実践主体はどのような形で自己成型をとげるのかという問いをともなう。広い意味での学習と教育-たとえば、個々の主体が他者とのコミュニケーションに媒介された世界へのチューニングの過程でどのように「アルコール依存」や「不登校」、「家庭内暴力」といった行動パターンを「学習」していくかといった問いをも含むという点で「広い意味」と言ったのだが-が主題化されるのはこの論脈においてである。

私のこれまでの研究業績は理論的な問題の考察に重点を置いたものと、フィールドワークから得られた問題の分析や考察に重点を置いた民族誌的研究に分かれている。理論的研究の多くは、上述の(1)の問題系との関係から認識論的な問いを追求したものが中心を占めている。東アフリカ・ケニア共和国海岸地方のドゥルマにおけるフィールドワークは1982年に着手し、今日に至るまでほぼ通算して6年弱になるが、フィールドワークの資料の整理が進んできた1990年以降は、民族誌的研究が多くを占めるにいたっている。上で述べたような問題設定が少しずつ明確になってきたのも1990年前後であるので、それ以降の民族誌的研究は、上述の3つの問題系を強く意識した形で展開されている。トピックは大きく分けて(a)儀礼的実践とコスモロジーに関するもの、(b)妖術信仰の問題、(c)精霊憑依に分かれるが、そのそれぞれが3つの問題系のそれぞれに対する研究として構想されている。

儀礼的実践とコスモロジーに関する一連の研究は(1)の問題系とそこでの認識論的な問いに対する答えを求める試みになっている。
妖術信仰は、われわれの眼にはあからさまに「想像的」であるような諸観念に、人々はいかにして呪縛されうるのかという形で、二番目の問題系をもっとも先鋭な形でつきつけてくる。そこでは、世界についての信念、特定の思い描きが、他者との社会的コミュニケーションのどのような回路を介した世界への棲みつきの特殊な実践形態によって支えられ、それに埋め込まれているのかを明らかにすることが課題である。一番目の問題系が人々にとっての境遇=世界がいかなる秩序をもっているかというその内容をとらえることに重点を置いているとすれば、二番目の問題系はそれが社会的空間(=コミュニケーション空間、言説空間)のなかでいかに日々更新され生成していくのか、そうした実践の中にいかに埋め込まれているのかを焦点としており、妖術信仰はこの問いを追求するのに格好の材料を提供しているのである。
憑依霊と憑依経験についての第三の研究領域は、特定の<境遇=世界>におけるこのような棲みつきの実践を通して主体がどのような主体として自己成型してくるのかを問う第三の問題系に関係している。他者と自己との錯綜したアーティキュレーションによって特徴付けられる、憑依によって代表されるような諸経験において、この社会における自己成型の固有のあり方に対する解明の手がかりが見出されるに違いない。

残念ながらこの三つの研究領域について、一応の解答を出すことができたのは第一の問題系についてのみである。1990年代は、主として第一の問題系への取り組みによって特徴付けられるが、その成果は学位論文として提出され、後に形を変えて「秩序の方法」として出版されたもののなかに示されている。2000年以降は、第二の研究領域についてのまとめに力を注いでおり、その一応の完成の見通しはすでについている。残念ながら第三の領域は(実は調査においてはこの領域にもっとも重点を注いでおり、資料の量においても質においても最も大きな比率を占めているのであるが)ほとんどまだ手付かずのままで残っているというのが現状である。

註釈
(註1)「適応」という概念は、そこに肯定的な含意がともないがちであり(反対に不適応には否定的な含意がともなう)、記述概念としては好ましくない。私は、適応のかわりに「チューンをあわせる」というややぎこちない表現を好む。それは記述概念としてより中立的である。それは必ずしも肯定的な過程を意味しない。世界が狂っているとき、それにチューンをあわせた行為は、それじたい狂った行為になる。

(註2)世界を「思い描く」あるいは「想像する」という言い方で私が述べている事柄は、従来は人々が世界をどのように「認識」しているかという仕方で問いとして立てられてきたものとそれほど大きな違いはない。ここで認識という言葉を用いずに、あえて「思い描き」(想像)という一般的でない言い回しを用いるのは、「認識」という言葉が認識の対象が前もっての存在を、ともすれば前提としてしまい(だからこそ「正しい認識」「間違った認識」といった言葉が意味をもつ)、世界を認識に先立ってそれとは独立にすでに成立しているものと考えさせがちで、人々にとっての境遇=世界がまさにそうした「思い描き」によって成り立っているという事実を捉えそこなわせる危険があるからである。

(註3)W・ジェイムズ 2004(1957) 『プラグマティズム』枡田啓三郎訳、岩波書店、165頁
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